にほん にっぽん 歴史 4

JAC starts its overseas discovery journey in Beijing Auto Show
April 27, 2018

にほん にっぽん 歴史 4

「正式な国号として使用する場合は“にっぽん”、その他の場合には“にほん”といってもよい」. 第2次遣隋使では小野妹子が派遣され、中国の皇帝煬帝へ親書を渡した。その親書には「日出ずる国の天子より日の没する国の天子へ」[5]とあり、あくまで朝貢外交の枠内ではあったものの、中国と冊封を受けずに自立した君主であることを認めさせることで、自主性を示す意図があった。, 7世紀中頃の大化の改新も権力集中化の動きの一つであり、一定の進展を見せている。しかし、権力集中化への最大の契機は、7世紀後半の百済復興戦争における敗北(→白村江の戦い)であり、倭国内の諸勢力は国制整備を進めることで一致し、権力集中化が急速に進み始めた。さらに壬申の乱に勝利した天武天皇は権力集中を徹底し、天皇の神格化を図った。天皇号の制定時期は天武期と考えられている。併せて、天皇支配を具現化するために律令制の導入を進め、8世紀初頭の大宝律令制定に結実した。日本という国号もまた、大宝律令制定の前後に定められている。天武天皇の詔勅に基づき日本最古の文献史料となる日本書紀の編纂が開始される。, 8世紀初頭から末にかけては奈良時代と呼ばれ、奈良に都城(平城京)が置かれた。そして遣唐使を盛んに派遣し、律令国家体制の形成と深化が図られた。王土王民思想に基づく律令制は、天皇とその官僚による一元的な支配を志向しており、民衆に対しては編戸制・班田制・租庸調制・軍団兵士制などの支配が行われた。8世紀前半は、律令制強化への動きが積極的に展開しており、三世一身法・墾田永年私財法などの農地拡大政策もこうした律令制強化の一環だったと考えられている。しかし、この時期聖武天皇のときに中宮職が設置されるなど政治の中枢が変化し始めていた。また8世紀後半に入ると百姓階層の分化が始まり、逃散増加で税収が減るなどして律令支配の転換を迫る状況が生じていった。, また、新羅を蕃国とし、東北地方の蝦夷・南九州の隼人を化外民とする中華意識が高まり、日本は、新羅へ朝貢を要求するとともに、蝦夷・隼人らを「教化」して律令支配へと組み込もうとしていった。この頃の北方の領土は日本海側沿いの拠点にとどまり、領土拡大につとめる日本は蝦夷に対して、帰順する蝦夷を優遇する一方、反抗する蝦夷は軍事力で制圧するという二面性の政策を取った。, この時代には干ばつ・飢饉・山火事などの災害や疫病の流行が多発した[6]。特に、735–737年にかけて発生した天然痘のエピデミック(天平の疫病大流行)は貴族・庶民を問わず夥しい数の死者を出し、政権を担っていた藤原四兄弟も相次いで病死した[7][8]。これらの災厄が自らの不信心に起因していると考えた聖武天皇は仏教への帰依を深め、東大寺創建を命じるなど国家的な仏教振興を推進した[9]。, 文化面では、『日本書紀』・『万葉集』・『風土記』などが編まれた他、遣唐使がもたらした大陸文化に影響を受けた天平文化が栄えた。仏教は政府により統制されたものの鎮護国家思想が強まり、聖武天皇の発願で東大寺・国分寺が国家護持の名目で建立された。工芸品では正倉院宝物が有名である。称徳天皇が作らせた百万塔におさめられた百万塔陀羅尼は、現存する世界最古の印刷物と言われている。, 8世紀末頃から12世紀末頃までは平安時代と呼ばれ、桓武天皇の築いた平安京が都とされた。平安前期には古墳時代の地方首長層に出自する古来の国造一族から任命された郡司階層の没落と百姓階層の分化が一層進み、前代から引き続いた律令国家体制に限界が生じていた。そこで朝廷は11世紀初頭頃から地方分権的な国家体制改革を精力的に推進し、王朝国家体制と呼ばれる体制が成立した。王朝国家では、朝廷から大幅に統治権限を委譲された受領とその国衙機構による地方支配が展開した。この受領・国衙支配のもと、収取体系は従来の律令体制における、戸籍による個別人民把握と郡司層の百姓層に対する首長権に裏付けられた、人頭税方式の課税から、土地単位の課税と有力百姓階層や土着した元国司子弟などの富豪層への農地経営請負委託を組み合わせた、負名体制へと変貌した。地方統治を裏付ける軍事面においては、国衙軍制を通じて武芸の家として武装と武力の行使を公認された官人層である武士階層が、契丹の台頭に呼応した承平天慶の乱や刀伊の入寇などといった内外の軍事的危機の解決に与ったことを機会に台頭した。また、中央政治においては11世紀に藤原北家が天皇家の外戚として政権中枢を担う摂関政治が成立した。, 12世紀に入ると王朝国家のあり方に変化が生じ、12世紀末から13世紀にかけて荘園の量的増加と、経営単位として自律した一円領地化という質的変化が著しくなり、権門を荘園領主とする荘園と、国衙が支配する公領が対等な存在として拮抗して並び立ち、このそれぞれにおいて荘園・公領間の武力紛争に耐えられる武士が現地の管理者として在地領主化する、荘園公領制と呼ばれる中世的な支配体制が確立した。同時期には上皇が治天の君として政務に当たる院政が開始しており、この時期が古代から中世への画期であるとされている。平安末期には保元・平治両乱を経て武士の軍事力が中央政界の政争の帰趨を左右するようになり、その結果、中央政界で政治の主導権を握った伊勢平氏によって原初的な武家政権と評価される平氏政権が登場した。, 奈良時代から漸次的に進んでいた文化の日本化が国風文化として結実し、漢字を元に生み出された平仮名・片仮名が使われていくようになり、『源氏物語』・『枕草子』に代表される物語文学などが花開いた。密教や末法思想が広く信じられ、神仏習合が進み、寺院が多く建てられた。, 東北地方では、11世紀頃から安倍氏・清原氏・奥州藤原氏などの半独立政権が興亡し、中央から派遣された鎮守府将軍をも交えてしばしば抗争した(前九年の役・後三年の役)。南西諸島においては、12世紀頃からグスク時代に入る。以降の詳細は、北から奄美群島の歴史、沖縄県の歴史、先島諸島の歴史などを参照のこと。, 12世紀末頃から14世紀頃までは鎌倉時代と呼ばれ、中央の公家政権と関東の武家政権が並立した。源頼朝を首長とする鎌倉幕府は、治承・寿永の乱で勝利して平氏政権を打倒し、その過程で守護・地頭補任権を獲得し、朝廷(公家政権)と並びうる政権へと成長した。13世紀前半の承久の乱の結果、公家政権は武家政権に従属した。その後、御家人筆頭である北条氏が幕府政治を実質的にリードする執権政治が確立した。, 13世紀中期頃から、貨幣経済の浸透と商品流通の活発化、村落の形成、地頭ら武士による荘園公領への侵出といった、大きな社会変動が生じ始めた。これらの動きは13世紀後半の元寇によって加速した。恩賞の払えない幕府は徳政令を発布したり得宗専制をとったりして急場をしのいだが、一度傾いた封建制を立て直すことはできなかった。在地社会では混乱に乗じて悪党・惣村などが出現し、荘園公領制の変質化が急速に進行した。, 文化面では運慶と快慶の東大寺南大門金剛力士像など、写実的な美術が展開した。また宗教面ではそれまでの鎮護国家を目的とする顕密体制の仏教から発した鎌倉新仏教の成立により、民衆へ仏教が普及していった。北海道においては、13世紀頃から従来の擦文文化が、狩猟採集で得られた商品価値に富んだ産品の交易により深く依存を強め、またオホーツク文化と融合する中、アイヌ文化へと変遷を遂げた。, 14世紀頃は南北朝時代と呼ばれ、大覚寺統の南朝と足利氏が支援する持明院統の北朝に朝廷が分かれた。, 鎌倉時代中期以降、皇室は大覚寺統と持明院統に分かれて皇位継承を巡り争い、鎌倉幕府の介入により両統迭立状態となっていた。大覚寺統から即位した後醍醐天皇は幕府を滅ぼそうとするも失敗し隠岐に流され、幕府は持明院統の光厳天皇を即位させたが、後醍醐天皇は隠岐を脱出すると再び討幕を呼びかけ、足利尊氏や新田義貞らにより鎌倉幕府を滅亡させる。, 後醍醐天皇は光厳天皇を退け建武の新政と呼ばれる天皇専制の政治を行うが、武士層の不満が増すと、尊氏はそれを背景に新政から離反し、持明院統を擁立して大覚寺統を南の吉野に追った。荘園公領制の変質が、社会各層における対立を顕在化させ、南北朝の争いを大義名分とする全国的な抗争が展開した, 文化面では、ばさらに代表されるように、身分秩序を軽視し華美な振る舞いに走る傾向が見られた。また、連歌が流行し、『二条河原落書』など文化の庶民化への動きが見られた。, 14世紀頃から16世紀頃までは室町時代と呼ばれ、京都の室町に幕府が置かれた。足利尊氏が南朝に対して北朝を擁立し室町幕府を開いた。京都に本拠を置いた幕府は、朝廷の権能を次第に侵食したため、朝廷(公家政権)は政治実権を失っていった。各国に置かれた守護も半済等の経済的特権の公認や守護請の拡大などを通じて、国内支配力を強め、国衙機能を取り込んでいき、守護大名へと成長して、守護領国制と呼ばれる支配体制を築いた。, 足利義満は南北朝合一を遂げ、また日明貿易を行い明皇帝から日本国王に冊封された。義満は守護大名の勢力抑制に努めたが、守護大名の拡大指向は根強く、幕府対守護の戦乱が多数発生した。幕府-守護体制は15世紀中葉まで存続したが、応仁の乱によって大きく動揺すると明応の政変を契機としてついに崩壊し、戦国時代へと移行した。 しかし昭和になると「国の呼び方が2つあるのはいかがなものか!」と「にほん」「にっぽん」論争が勃発します。 まずは1934年、昭和9年。 12月号, 新製品体験会や専門家によるセミナーなどのイベント、プレゼント企画にご参加・ご応募いただけます。, サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』の公式サイトです。歳を重ねてもアクティブに行動したい知的な高齢者シニア世代=サライ世代の方々に向けたライフスタイル提案と旅・食・人物・歴史・文化・趣味・健康・モノ情報など上質な情報を発信しています。. “にほん” “にっぽん”論争の歴史. 5/4 bs-tbs にっぽん!歴史鑑定「超人・空海 誕生の秘密」 にっぽん!歴史鑑定 今回の主人公は弘法大師こと空海。彼が会得した真言密教というのがそもそも超能力志向の強い仏教であるので、それに由来しての超人伝説の多い人物でもある。 弘法大師こと空海 修行を志した若い日 空海は774 「にほん」と「にっぽん」に大きな違いはなく、どちらも正式な読み方です。 よって、多くの人は語呂のいいほうで読んでいます。 ただ、企業の名前などは読み方が正式に決まっていることが多いので注意が必要です。 序論:「日本」の読まれかたの歴史. 日本書紀の記述によれば、日本国の建国はこの時代の終わりに行われたとされる。, 縄文人の主要な遺伝子として、ハプログループD1a2a (Y染色体)、ハプログループC1a1 (Y染色体)が想定されている[4]。, 紀元前10世紀頃から3世紀頃までは弥生時代と呼ばれる。時代区分名称は、この時期に特徴的に見られた弥生土器に由来する。 文/砂原浩太朗(小説家) 室町幕府最後の将軍・足利義昭(1537~97)は、知名度のわりに人気があるとは言いがたい存在だ…, 文/砂原浩太朗(小説家) 足利13代将軍・義輝(1536~65)の生涯は、ある光芒を放っている。おさなくして将軍位につき…, 文/砂原浩太朗(小説家) わが国では推古天皇にはじまる女帝が何人か存在したし、海外でもエリザベス1世やエカチェリーナ2世…, 文/砂原浩太朗(小説家) 明智光秀(?~1582)は謎多き武将である。最大の疑問は、「なぜ本能寺の変を起こしたか」という…, 文/砂原浩太朗(小説家) われわれが「三国志」というとき、おおまかに分けて正史と演義があることは、ファンならご存じだろう…, 文/砂原浩太朗(小説家) 近年、女性がらみの不祥事で糾弾される芸能人が目につく。窮屈な世の中になったと嘆く声もあがるが、…, 文/砂原浩太朗(小説家) 晩年のクーデターで政敵を葬り、魏のなかで比肩する者なき実権をにぎった司馬懿仲達。が、みずからは…, 文/砂原浩太朗(小説家) 司馬懿(しばい。179~251)は、三国志のかくれた主役と呼べるかもしれない。おおかたのイメー…, 文/砂原浩太朗(小説家) 近年、戦国史の見直しが目覚ましいほどにすすんでいる。武将への再評価もさかんであり、桶狭間で織田…, 文/砂原浩太朗(小説家) 蜀の武将・趙雲(ちょううん。?~229)は、三国志のなかでも独特な存在だと感じる。朋輩である関…, 文/砂原浩太朗(小説家) 武田信玄や上杉謙信にはおよばぬだろうが、越前(福井県)の戦国大名・朝倉義景(1533~73)の…, 文/砂原浩太朗(小説家) 暴君か英雄か評価は分かれるにしても、歴史上、秦の始皇帝(前259~210)の存在感はだれもが認…, 文/砂原浩太朗(小説家) 織田信長を討った逆臣、という明智光秀(?~1582)のイメージは、20世紀の後半からしだいに変…, 文/砂原浩太朗(小説家) 中国の歴史をひもとく際、われわれ日本人にとってつかみにくいのが「宦官(かんがん)」と呼ばれる存…, 文/砂原浩太朗(小説家) 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古代の始期については古代国家の形成時期をめぐって見解が分かれており、3世紀説、5世紀説、7世紀説があり、研究者の間で七五三論争と呼ばれている。中世については、中世を通じての社会経済体制であった荘園公領制が時代の指標とされ、始期は11世紀後半〜12世紀の荘園公領制形成期に、終期は荘園公領制が消滅した16世紀後半の太閤検地にそれぞれ求められる。近世は、太閤検地前後に始まり、明治維新前後に終わるとされる。近代の始期は一般に幕末期〜明治維新期とされるが、18世紀前半の家内制手工業の勃興を近代の始まりとする考えもある。さらに、第二次世界大戦での敗戦をもって近代と現代を区分することもあるが、最近は日本史においても、近代と現代の境目は冷戦構造が崩壊して、バブル崩壊で右肩上がりの経済成長が終わった1990年前後に変更すべきという意見もある。[誰? 『1934年(昭和9年)に文部省臨時国語調査会が「日本」の読み方を「にっぽん」に統一し、外国語表記も「Japan」を廃して「Nippon」を使用するという案』 1429年に尚巴志王が琉球王国を作り上げ、日本や明などと国交を結び盛んに貿易を行った。本州から現在の北海道南部に進出した人々は道南十二館などの居住地を作り、和人と呼ばれた。アイヌと和人は交易をしたが、和人がアイヌを圧迫したため、1457年に大首長コシャマインを中心に蜂起するも(コシャマインの戦い)、蠣崎氏により鎮められた。, この時代の社会原則は自力救済であり、各階層内において連帯の動き=一揆が浸透した。村落社会の自立化が進み惣村・郷村が各地に成立した。西日本では交易が活発化すると、その活動は朝鮮・中国に及んだ(倭寇)。文化面では、連歌・猿楽・喫茶など身分を超えた交流に特徴付けられる室町文化(北山文化・東山文化)が栄えた。この文化は禅宗の影響を受け、簡素さと深みという特徴も持っていた。, 15世紀後期から16世紀後期にかけての時期を戦国時代と呼ぶ。この時代は、守護大名や守護代、国人などを出自とする戦国大名が登場し、それら戦国大名勢力は中世的な支配体系を徐々に崩し、分国法を定めるなど各地で自立化を強めた。一円支配された領国は地域国家へと発展し、日本各地に地域国家が多数並立した。この地域国家内における一元的な支配体制を大名領国制という。地域国家間の政治的・経済的矛盾は、武力によって解決が図られた。16世紀半ばに登場した織田信長は、楽市楽座令を出したり、自治都市の堺を直轄領にしたりして流通政策と海外交易を担い、強大な軍事力を手にした。, この時代は、農業生産力が向上するとともに、地域国家内の流通が発達すると、各地に都市が急速に形成されていった。また、ヨーロッパとの交易(南蛮貿易)が始まり、火縄銃やキリスト教などが伝来すると、それまでの戦術や日本の宗教観念が変化した。南蛮貿易は江戸幕末まで日本の政治・経済に影響を与え続けた。, 織田信長は室町将軍足利義昭を放逐すると、室町幕府に代わる畿内政権を樹立した。信長が本能寺の変により自害すると、天下統一の事業は豊臣秀吉が継承することとなった。, 秀吉は、信長の畿内政権を母体として東北から九州に至る地域を平定し、統一事業を完了した。秀吉も中世的支配体系・支配勢力の排除・抑制に努め、中世をおわらせた。刀狩や太閤検地の実施を通し、兵農分離を進めて荘園公領制・職の体系を消滅させたのである。秀吉による天下統一により、政治や経済の安定がもたらされると大名・武士を中心として豪壮な桃山文化が栄えた。, この時代の世界情勢と秀吉の外交に臨む態度はサン=フェリペ号事件に見ることができる。船員に提示された秀吉の書状によると、秀吉は英葡永久同盟下にあるポルトガルから聞いて、フィリピンが武力制圧されていたことを知っていた(フィリピン#スペイン植民地時代)。処刑された日本二十六聖人はフランシスコ会であったが、宗教改革の時節柄カトリック教会であった。近世日本国民史によると、スペイン国王は宣教師を世界中に派遣し、布教とともに征服を事業としているということであった。しかし、この文献は当世のものでない。このときのスペイン国王はフェリペ2世であった。次の事実は世界的観点から特に重要である。ハプスブルク家出身であるフェリペ2世は、英葡同盟下にあるポルトガル国王を兼ね、さらに帝国郵便の維持費を負担していた。, 秀吉は朝鮮への出兵を実行したが、その最中に死去。後継者問題も抱えていた豊臣政権は弱体化していった。, 慶長8年(1603年)から慶応3年(1867年)までは江戸時代と呼ばれ、江戸に江戸幕府が置かれた。, 秀吉の死後、徳川家康は関ヶ原の戦いに勝利して権力を掌握すると江戸に幕府を開き、大坂の陣で豊臣氏を滅ぼした。この後幕府は、17世紀中葉までに武家諸法度の発布、参勤交代の義務化、有力大名の改易などを通して、諸大名との主従制を確固たるものとし、また朝廷統制を強め、幕府官僚機構を整備した。並行して、キリスト教の制限と貿易の管理強化を進め、社会の安定化に努めた。そうした中勃発した島原の乱は、キリスト教禁止の徹底と出島での管理貿易による鎖国の完成へとつながる。日本の境界領域である琉球王国と蝦夷地(和人地である渡島半島を除く北海道、樺太及び千島列島)の支配は大名を通じて行なわれた。, 一方で、社会の安定化に伴って耕地開発の大事業が各地で実施され、倍増した耕地面積は食糧増産と人口増加をもたらすと、村請を通じて幕府財政や藩財政を支えるとともに、全国的な流通経済を大きく発展させた。以上のように、江戸時代前期に確立した支配体制を幕藩体制という。社会の安定と経済の成長は、都市の発展を支え、17世紀後半の元禄文化に結実した。, 18世紀に入り金銀が流出して海舶互市新例を出すようになり、徳川吉宗は幕府権力の再強化と財政再建(享保の改革)を推し進めた。その後も体制維持および財政再建の努力(寛政の改革、天保の改革等)は行なわれるが成功はしなかった。この頃に都市町人を中心とする化政文化が花開いた。ところが、商品経済の発達による社会各層での貧富の拡大とそれに伴う身分制の流動化、そして幕末の通貨問題を背景に、幕藩体制は次第に動揺していった。, 19世紀中頃までに、国内の社会矛盾と国外からの圧力(ロシア、イギリス、アメリカ船の接近)に抗するため、幕府はフランスのソシエテ・ジェネラルから貸付を受けて軍備を増強した。しかし同世紀後半の黒船来航と日米和親条約締結による開国を契機として幕府の管理貿易(鎖国)は解かれた。そして不平等な安政五カ国条約を勅許なしに締結してしまい、幕府の威信は低下した。朝廷の権威が増大することになり、幕府は大政奉還により権力の温存を図ったが、倒幕派の薩摩藩、長州藩、土佐藩らとの内戦(戊辰戦争)に敗北後、瓦解した。, 江戸時代は文化の担い手が庶民にまで拡がり、歌舞伎、俳諧、浮世絵、お陰参りなどが盛んになったほか、寺子屋や藩校で広く教育が行われた。当世の教育機関は明治になって財政支援に乏しい学制の普及に活用された。, 明治年間(1868年 - 1912年)は明治時代と呼ばれる。倒幕派の諸藩を中心とする維新政府は戊辰戦争を経て旧幕府勢力を退けてから、王政復古により明治新政府を樹立した。新政府は岩倉使節団の世界視察に基づいて欧米の諸制度を積極的に導入した。明治維新と呼ばれる一連の改革は、廃藩置県、四民平等化、六法・郵便・鉄道・水道等の整備にまで及んだ。その過程で日本の境界領域であった琉球王国や、樺太を除く蝦夷地(北海道の大部分と千島列島)、小笠原諸島を完全に日本の領域内に置き、国境を画定した。安政五カ国条約を改正するため、帝国議会の設置や大日本帝国憲法の制定など国制整備に努める一方で、産業育成(殖産興業)と軍事力強化(富国強兵)を国策として推進した。日清戦争と日露戦争に勝利したことで条約改正を果した。日清戦争では三国干渉により、割譲された遼東半島を清に返還。日露戦争では賠償金を得られず大きな負債が残った。電信における主権は1967年まで回復できなかった。また、一方では台湾統治や韓国併合を行い領土を拡大した。, 文化面では、欧米から新たな学問・芸術・文物が伝来すると、その有様は文明開化と呼ばれ、江戸時代以前とは大きく異なった文化が展開した。言文一致や変体仮名の整理、標準語の普及が進められ、近代的な日本語が成立した。宗教面では従来の神仏混交が改められ(神仏分離)、寺請制度が廃止された。神社は行政組織に組み込まれ、皇室を中心とする国家神道に再編されていった。これにより仏教は弾圧された(廃仏毀釈)。キリスト教は欧米側の事情として制度・資本両面の輸出に成功し布教の理由が薄れてなお、同志社大学などの教育機関に社会的地位を占めるようになった。, 世界的観点においては、明治維新の途中から日清戦争までが大不況 (1873年-1896年) 期にあたる。このときはオリエンタル・バンクが日本の外債を引受けた。日露戦争ではシ団がロスチャイルドなどの個人銀行に変わり、その意味で幕末の方針に回帰した。, 大正年間(1912年 - 1926年)は大正時代と呼ばれる。護憲運動を経て大衆の政治参加が進み、政党政治が確立した時期である(大正デモクラシー)。1925年(大正14年)には男子普通選挙が実現した。, 一方で政党政治家には大衆の人気取りのため乱暴な対外政策に走る傾向があり、大隈重信政権は1914年(大正3年)の第一次世界大戦には直接国益に関与しないにも関わらず日英同盟を根拠に参戦。同じ連合国である中華民国の袁世凱政権に対華21カ条要求を突きつけ、帝国主義的野望を露骨に示した。戦争の結果、1919年(大正8年)にパリ講和会議でドイツの山東省権益を獲得したがワシントン会議で返還された。太平洋のドイツ領であった南洋群島は、国際連盟からの委任を受けて統治することとなった。, 日本は大戦特需と海底ケーブル需要により工業生産が激増し、未曾有の好景気となる(大戦景気)。財閥は資本の集積・集中を進め巨大コンツェルンを築いたり、国際カルテルに参加したりした。政府は社会政策の面ではほとんど無策であり、農村から労働者が流入した大都市では貧民窟が形成されるなど貧困が広がった。大戦が終わると大戦中の反動による深刻な不景気に苦しんだ。そこに関東大震災が混迷する状況に追い討ちをかけて、JPモルガンなどに巨額の外債を引受けられたり、金解禁により正貨が流出したりした。, 昭和年間(1926年 - 1989年)は昭和時代と呼ばれる。昭和2年に昭和金融恐慌が発生。昭和5年には、アメリカから発生した世界恐慌が日本経済を直撃した(昭和恐慌)。国政では二大政党の対立から統帥権干犯問題が表面化し、金解禁も失敗に終わるなど政党政治への不信感が増し、外地では関東軍によって満州事変が発生するなど社会不安が増加した。1932年(昭和7年)に現役総理の犬養毅が暗殺されると、立憲政友会が国政第一党でありながら前朝鮮総督の斎藤実が立憲民政党の協力を得て総理に就任する。斎藤内閣は塘沽協定で満州事変を終結させた後、事変によって誕生した満州国を承認し、それに反発する国際連盟に脱退を表明した。1936年(昭和11年)には陸軍の青年将校による二・二六事件クーデターが発生するも鎮圧された。当時、国連から脱退していた日本は、同じく脱退していたドイツ国(ナチス・ドイツ)と日独防共協定を締結した。1937年(昭和12年)、中国の上海にて第二次上海事変が勃発し、日本は中華民国との戦争(日中戦争・支那事変)に突入する。1940年(昭和15年)、ナチス・ドイツ、イタリア王国と日独伊三国同盟を締結した。1941年(昭和16年)の仏印進駐でアメリカとの関係が決定的に悪化すると、日本はアメリカとの戦争を決断し、マレー作戦とそれに続く真珠湾攻撃でアメリカ軍を奇襲し、太平洋戦争(第二次世界大戦・大東亜戦争)に突入した。開戦当初こそ優勢を保っていた日本軍であったが、アメリカ軍の生産力と通商破壊に次第に圧倒され、各地で敗北を重ねた。戦争末期には主要都市を軒並み戦略爆撃で焼け野原にされ、広島と長崎には原子爆弾が投下された。1945年(昭和20年)、昭和天皇の聖断により、日本はポツダム宣言を受託して敗戦を迎えた。, 戦後、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) の占領政策に基づいた象徴天皇制、国民主権、平和主義を定めた日本国憲法を新たに制定した。「侵略戦争の経済的基盤」を無力化するために農地改革と財閥解体が断行された。解体された財閥はコンツェルンとしての形から企業グループとなった。企業グループとは、アメリカ対日協議会の圧力により過度経済力集中排除法が適用されないことになった「トップのいない企業結合体」である。無力化の対象となった寄生地主制と財閥は、戦中より産業合理化の障害としても論じられていた[10]。そこで傾斜生産方式という合理化が推進された。1952年、日本は世界銀行と国際通貨基金に加盟した。このころは新円切替や正力マイクロ波事件などが国民生活を脅かした。, 1950年代にさしかかるころから逆コースが進展した。朝鮮戦争では占領軍の指令に基づき掃海部隊や港湾労働者を朝鮮半島に送り込むなど韓国支援活動を行った[11]。1952年(昭和27年)にサンフランシスコ平和条約により主権を回復した後、外債の導入により急速に戦後復興を進め、財閥は企業グループとして形を変えて復活した。冷戦下の西側陣営として日米安全保障条約を締結した。独立後の日本は西側諸国の中でも特に米国寄りの立場をとったが、日本国憲法第9条を根拠に軍事力の海外派遣を行わなかった。サンフランシスコ平和条約発効直前に発生した韓国による竹島軍事占領を除き、戦後の日本は諸外国からの軍事的実力行使にさらされることがなかった。自民党と社会党の保革55年体制ができた翌年、日本は日ソ共同宣言と国際連合加盟を果した。1972年(昭和47年)には日中国交正常化と沖縄返還が行われた。それぞれに関しては中華民国の国家性と西山事件が未解決である。, 1960年代、日本の国民総生産は証券不況にあえぎながらも高度経済成長をとげた。1966年(昭和41年)にフランスを、1967年(昭和42年)に英国を、1968年(昭和43年)には西ドイツをそれぞれ追い抜いた。これをもって米国・ソビエト連邦に次ぐ世界第3位にのぼりつめ、日本は先進国となった。1970年代はニクソン・ショックとオイルショックの二重苦にもかかわらず軟着陸できたので安定成長期と呼ばれた。重化学工業から自動車・電機へと産業の主役が移る産業構造の転換が進んだ。一方、傾斜生産方式から安定成長に至るまで公害病問題が深刻化していた。また、日本企業の輸出攻勢は貿易摩擦をもたらした。そして数年にわたり報道されたロッキード事件は日本のグローバル化を象徴した。昭和末期、中曽根内閣の民営化政策が推進され始めてほどなくプラザ合意がなされた。これにより円高不況がおこり、そこでゆきすぎた金融緩和がなされてリクルート事件のころにバブル景気が到来した。, 歴史学界は戦前・戦中に弾圧されていた思想や研究が解禁されて、古代史や考古学の研究が進んだ。GHQ 占領下でも戦前・戦中とは違った方針で検閲が行われた。昭和期の学者は国内文献を渉猟するにあたり時々の趨勢に左右された。国外文献、とりわけアメリカ側の保有する戦時史料は、次の平成に情報公開法が充実し、また公開期限も到来して、堰を切ったように研究が進んだ。, 平成年間(1989年 - 2019年)は平成時代と呼ばれる。自社両党による55年体制が崩壊し、短命の非自民連立内閣が成立した。そして2009年と2012年にも政権交代が起こった。阪神淡路大震災・地下鉄サリン事件・東日本大震災・福島第一原子力発電所事故などの大規模な災害が発生し、危機管理に対する意識が高まるきっかけとなった。, 世界的観点において平成初期は、合衆国などの余剰家計をミューチュアル・ファンドが吸い上げてグローバルな投資活動を展開し注目を浴びた。21世紀に入り、BRICSなどの新興国が台頭。日本を含む先進国の産業空洞化、国家財政や年金会計における債務超過、通貨危機、中流階級の貧困層への転落などの傾向が顕著になり、従来世界経済において圧倒的に大きな影響力を持っていた日本や欧米の経済的・政治的先進性は疑義をもたれるようになった。, 1994年から、アメリカ政府は日本政府に対して年次改革要望書を出した。年次改革要望書は2008年に終了。, インターネット、携帯電話は世の中を変えつつある。また日本は景気の改善と少子化により人手不足に陥っており、人工知能・自動運転・ロボットなどの新技術が人間の負担を軽減する見通しが出されている。, 日本においては、漢字が導入された古代から歴史認識および歴史叙述の展開が見られた。中世には歴史物語の盛行により庶民層にも国家単位の歴史認識が流布する。近世には合理的・実証的な歴史研究が民間に広がり、近代には西欧から近代的歴史観が本格的に導入された。また戦前では日本神話が全て正史であると教育されていたため弥生以前の研究をするのはタブーであるという風潮があった。, 崎谷満『DNA・考古・言語の学際研究が示す新・日本列島史 日本人集団・日本語の成立史』(勉誠出版 2009年), https://books.google.com/books?id=QBGGBAAAQBAJ, https://books.google.com/books?id=vD76fF5hqf8C, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=日本の歴史&oldid=80374645.

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